どこまでが治療法なんだろうか?

脊髄にダメージを負った人の治療に中絶胎児の細胞を用いる治療法の是非が問われている。
脳死問題、臓器移植問題。


色々と考えなければならないと冷静な回答に向けて思考しようとするも、感情的な嫌悪感のようなものがどうしてもでてくる。(ちょっと倫理観とは違う気がしている。)
動物だったら良いのか?人間だから許されないのか?
機械の修理なら何でもありだ。できることは全ておこなう。


患者の立場ならどうだろう?今までの自分と事故にあってからの自分。自分の一部が欠けてしまったかのような感じと共に元に戻りたいという欲求。
患者の周囲の人となった場合はどうだろう?毎日接していて辛くなる。時間をさかのぼり事故を防ぎたくなるような狂おしいほどの気持ち。


不自由になって初めて見えてくる、感じてくることが山のようにある。

 生きていることのありがたさ
 見ることができること
 聞くことができること
 匂いをかんじること
 モノを食べることができること
 味わうことができること
 歩くことができること
 考えることができること
 手でモノをつかむことができること
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 全てにおいて全ての人は平等ではないこと

あたりまえがあたりまえでなくなって、今まであたりまえだと感じていたものの、すばらしさ、ありがたさがとびこんでくる。


学生の時に2人の同級生がバイク事故で非常にあぶなかったことがあります。幸い2人とも治療には多くの時間を費やしましたが大きな後遺症を負うこともなく生還しました。今でも生還したことに(救われたことに)、輸血に使われた誰かの献血した血液に、医療スタッフに感謝したいと思っています。なので、なるべく献血したいと思っています。
自分の臓器に関しても、生かされるより活かしていただきたいと考えています。


少なくとも、治療だと考えるのなら、細胞を提供してもらった胎児に感謝し、しっかりと弔ってもらいたい。(都合よく奪っといて許してもらおうという話ではない)