あの日のこと。

一組の老夫婦と思われる二人を街でみた。
二人は互いに見つめあって笑っていた。
二人の間に音はない。
声を交わすことなく言葉を使い、声を出すことなく笑っていた。
二人は手を動かしながらとても幸せそうに話をしていました。
僕は同じ国の者ではあるが、何を話しているのか全く解らなかった。


銀座山野楽器の地下1F、二人のおばちゃんがVideoコーナーの前で映画のビデオテープを手に取り楽しそうに手で話をしていた。
(おいらもその映画見たよ。)


今までそんなことは考えなかったんだ。


日本では洋画に字幕がある。アメリカではめったに字幕の映画がなく、ダンスウイズウルブスなどはとても珍しいことらしい。アメリカで映画の仕事をされている人に話を聞いたことがあるんだけど、『日本はいろんな映画を見ることができて良い』って、まずハリウッド以外の映画はかからないらしい。海外の映画はリメイクするしね。宇宙人にも動物、恐竜にも英語を喋らせるしね。


戸田奈津子さんがNHK手話ニュースにでていろいろな話をされていた。英語を日本語に翻訳する。声を読みきれるだけの文字に翻訳する。彼女のすばらしい仕事が洋画を輝かせている。


チャップリン無声映画に最後までこだわったひとだったようだ。言葉を使わず自分の伝えたいことを表現し、加工しなくても様々な国の人に楽しんでもらうように作っている。
チャップリンの最初のトーキー(有声)は確かあのめちゃくちゃドイツ語だったはず。


言葉の価値は各々の頭の中で様々な経験から重み付けされたものである。
言葉の価値で集団を作る。思想を作る。思想が人を戦地へと向かわせるのなら、悪口を言われてナイフを振りかざすのであれば...。


私は言葉で考える。頭の中で声を出して頭の中の耳が聞き言葉のネットワークが次の言葉を引っ張り出す。言葉で自分を保っている気になる。声が聞こえない人は考えるときは文字で考えるのであろうか?(映像で?目で?)


初めは誰かの言葉を真似て話をする。全くのオリジナルの言葉は誰にも伝わることはない。でも生まれたときは言葉を知らない。


言葉が通じるということを考えるのである。
伝えたいことは伝わったことと同じにはならない。


あの老夫婦は幸せそうに笑っていた。